B 235 B D U

1991年11月某日

走り終えたばかりなのでまだなんとも無かったが、だんだん腿に違和感を感じ始めた。予定表には午前中は「15キロT A P」(T A P=Troupes Aéroportées=空挺部隊の略語)としか書いてなかったので、部屋に戻った僕らはゆっくりシャワーを浴びることが出来たが、だんだん腿の違和感が大きくなって来た。終わった時に候補生で第2外人落下傘連隊から来ているフランス人のベルチエがシェフ・ポーツェネムに「筋肉をほぐすために少し走りにいけたら良いんですがねぇ・・・」とかなんとか言っているのが聞こえた。こんなにキツい駆け足をやった後にまだ走ろうとしているのか???と僕は目を丸くしたけれど、これはベルチエが正しかったということはその時の僕は思いつかなかったのだ。僕らがやったのはただの駆け足ではなかった。大変な足の筋力を使ったので、それらをほぐさないといけなかったのだ。

昼食の集合の時には何人かはすでにびっこを引いて歩いていた。僕はなんとか歩く事は出来たが、それは隊列を組んでいる時だけで、一人になると僕もびっこを引いていた。腿、脹脛など筋肉痛が始まっていた。こんな痛みは久々だ。いつ以来だろうか、記憶にないくらいの痛みだった。この15キロメートルT A Pの駆け足を毎週やるらしい。下士官訓練へようこそ!と言ったところか???

 

ベルチエは第2外人落下傘連隊から来ていて大きな口を叩くが言っていることは筋が通っていて運動も優れていた。この小隊ではリーダー格の一角を占めていた。特に仲がいいというわけでは無かったが、上級軍曹になるのは早かった。今でもF Bで繋がりがある。怪我で踵が人工といつだったか聞いた覚えがある。

 

この頃だったか、ジブチ人のマハムドと仲良くなった。彼は以前第6外人工兵連隊にいてその後は仏領ポリネシアにある第5外人連隊に配属になって今は本部の第1外人連隊にいるという事だった。面白い奴でとにかく体力を使う事が嫌いであった。なんでこんな奴が下士官訓練コースに来ているんだ???という感じのやつだった。ただ、外人部隊の事はよく知っていて、僕に色んな事を教えてくれた。のちにまた第6外人工兵連隊に戻ってきて、だいの仲良しになった。それによく一緒に飲んだ。外人部隊を除隊してからも会って何度も飲んだりしてけれど、やつは飲みすぎて数年後に死んでしまった・・・。惜しい友達をまくしたものだ・・・。

 

今では授業を上手くやる事が出来る様になったけれど、当時は僕のフランス語はまだまだで、わからない事の方が多かった。なのでドカルモ先任下士官の授業の進め方に関しての授業のテストでは、問題がわからなくて悔しい思いをした。今思えば大したことではないけれど、当時は大変だったのだ。

 

来週から野外訓練が始まる。各中隊が持っている農場の一つで、うちの中隊は伍長訓練コースでも使った事のあるベルトランドー(Bertlandou=B D U)という所にあった。その準備が始まった。「また眠れないのかよぉ!」と気が重くなったのは僕だけではあるまい。みんな口数が減った。ただB D Uへ行かないと何も始まらないとは思っていた。まぁ行くしかない・・・。

 

 

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