西アフリカ某国日記2-1

安全のため国名は伏せております。

 

再びこの西アフリカ某国へやって来たのだ。この国での任務はこれで4度目だ。いつものホテルに宿泊する。この国の首都で、宿泊客は外国人がほとんどのホテルで、知った顔のボーイやバーマンがいてなかなかいいホテルだ。

朝は5時半起き、朝食は6時半。去年の「アフリカ中西部」の国とは大違いだ。おまけに「通勤」はミニバスで30分ぐらいで済む。これは大きい。前回は往復4時間の装甲車での移動だったのでそれに比べると雲泥の差だ。今回もオランダ陸軍の兵士達がいて僕らの仕事を手伝う事になっていた。女性兵士2人、男性兵士3人の編成だった。リーダーは女性の少佐でもう一人の女性は衛生兵だった。

今回の仕事はいつもと違って僕らは講義を行わない。現地軍の兵士、主に下士官達がインストラクターになって講義を行う。僕らはそれを見て最後に「今日はここが良かった」とか「こうした方がいい」とかアドバイスをするのが役目だ。インストラクターの中に3人ほど、去年ここで教えた下士官がいた。これは嬉しい誤算であった。

今回は、最初に装甲車の運転のコースだった。相棒はと言うと、外人部隊の新兵時代から知っているフランス人のマルタンだ。奴は昔から大口を叩くことで知られていた。そのせいでヘマばかりしていて罰で穴堀をさせられた事が2、3度あって、Pell -US(ペル・ユェス=携帯シャベル)と渾名がついたと言うか僕がつけた。中央アフリカでの出来事だった。今週はマルタンと2人で前回より増えた装甲車についての講義を聞いた。装甲車は前回同様南アフリカ製の「PUMA」が2台、トルコ製の「COBRA」が2台、フランス製の「Bastion」が2台。僕が外人部隊現役だった頃には見たことのない奴だった。海外向けの装甲車で、その界隈では知っている人なら知っているモデルだった。ただ問題は、世界中の国が装甲車を輸出しているので、兵站が困る事だ。西アフリカの紛争地へ派遣される兵士にとっては重要な問題だった。

 

そんなこんなでなんとか1週間が終わった。ホテルに戻る前に何時もの如くその日の報告をする。その時、僕が本来担当するExplosive Hazard Awareness Training(通称EHAT=爆発物の危険を教える。不発弾やIEDについて)の授業が来週から始まると告げられた。あと1週間余裕があると思っていた僕はびっくりした。ただ、僕本来の仕事なのでどうと言う事はない。それに今回は現地軍の下士官が講義を行う。なのでやる気が出て来た。

 

土日は休みだけれど、5時半に起き、6時半の朝食にはレストランへ降りて行った。休みとはいえ10時ぐらいまでベッドでゴロゴロしたりなどはしない。体調が狂うからだ。なので休みの日でも何時も通り起きる。とはいえ前回の4時起きに比べたら遥かにゆっくりしている。

 

朝食後、しばらくしてからアドミでカナダ人のルーの所へ行って手当てに関する事を教わった。ルーは米軍にいた時に日本で勤務した事があって、なので日本の事を良く知っていた。

 

月曜日から新しい授業が始まる。オランダ軍の工兵部隊にいる軍曹が一緒なのだけれど、言葉は彼らはオランダ語と英語なので、僕の錆び付いた英語を鍛え直さなければならないのだ。英語は頭が痛い・・・。