B099 魔法の塗り薬

1989年8月25日(金)

午前中は医務室で終わってしまった。診察は症状の重い軽いではなく下士官がまず診療を受ける。僕は兵卒なのでただひたすら待たされた。結果は8日間の運動禁止で、作業も膝に負担がかからない様にしろという事だった。

午後はナヴィゲーション(オリエンテーリング)だったので、僕は部屋で待機だった。みんなは軍曹の手書きの地図のコピーとコンパスを持って何分かおきに出発していく。基地内だったけれど、基地は大きいので、ポイントの場所の定義を理解しないと見つけられない。「管理中隊の建物の東の角」などは、建物はわかるけれど、方角をちゃんとコンパスで理解しないと無駄な距離を走ることになる。意外と早く終わって、今度は水泳だった。ハンセン伍長は水泳があまり得意ではないので、この時ばかりは文句は言われない。ある程度泳いだ後、飛び込み台の下から潜水をやった。一旦潜って壁を蹴りどれぐらいまで行くかだ。僕は25メートルまで行って水中でUターンして再び壁を蹴って10メーターぐらいで息が続かなくなり水面に顔を出した。僕の脇には中尉がいて、数メートル差で負けてしまった。ちきしょう!中尉としても、兵卒なんかに負ける訳はいかないのでかなり無理をしたのかどうかは分からないけれど、水面から出た顔はトマトみたいに真っ赤であった。肩で息をしている。僕を見て「c’est bien !(セ・ビャン!)」(いいぞ!)と言ったけれど「もう少しで兵卒に負ける所だったぜ!」みたいな感じが滲み出ていて何だか可笑しかった。

 

1989年8月26日(土)

今朝は連隊のジムへ行っていろいろな器具で筋力トレーニングだった。とにかく毎朝運動するので、月曜日の連隊朝礼の日は運動がないからなんだか物足りなくなってきたのはこの頃だった。相変わらず走るのは苦手だったけれども・・・。

みんなは何かの作業だったけれど、僕は小隊長室で中尉とフランス語の授業だった。この時代は土曜は半ドンなので午後は昼寝をした。夜はビトウさんと、第2中隊のタケシタくんと「Gun」などの雑誌を肴にビールを飲んだ。

 

1989年8月27日(日)

カステルノダリーへ衛生兵の訓練コースに行っていたイタリア人のポッゾリが戻ってきた。午後はまた昼寝をして夜はまた日本人3人で管理中隊のクラブへビールを飲みに行った。

 

1989年8月28日(月)

少し肌寒い連隊朝礼の後、背嚢に地雷を詰めて1キロほど歩いて地雷原を作る訓練をした。地雷原と言うよりは点だ。地雷原とは広い範囲を言う。開けた土地を地雷で封鎖して敵が通る事の出来ないようにする。今僕らがやろうとしているのは道路を地雷で封鎖する作業だ。一か所でも道路が対戦車対車両の地雷で封鎖されている事がわかると、敵は必ず止まる。他に仕掛けられていないか警戒するからだ。そうして敵の進むスピードを落とすのだ。それら対戦車地雷の周りは簡単に処理されないように対人地雷を敷設する。世界中の工兵のテクニックの基礎だ。歩兵部隊や戦車部隊は危険で進めなくなるので工兵部隊を呼ぶ。田舎道の十字路でこの騒ぎなのだ。現代の歩兵は全て機械化(車両化)されている。工兵も然りだ。なので、大きな演習になると、本当の田舎の十字路の周りには工兵の地雷除去の作業が終わるまで何台もの車両が渋滞を起こし大騒ぎになる。僕たちの連隊は第1中隊は海や大きな河川の上陸地点のそういった障害の除去、第2中隊は山岳地帯専門、僕らと言うと、ヘリに乗ってある地点まで行き、決められた短い時間内に敵が通りそうな道に小さな地雷の障害を作りヘリで次の地点までいく。そういった道路障害を幾つもヘリで移動しながら作るのを専門にしていた。

午後は「パルクール・ドゥ・コンバッタン」だったけれど、膝が再び痛くなったので部屋に戻された。明日また医務室へ行けと言われた。ただ、医務室へ行ってもなんだか分からない塗り薬だけでおしまいなので全くといっていいほど効果は無かった。外傷以外は役に立たない医務室なのであった。そこで塗られる炎症止めの「NIFLURIL」(ニフルリル)と呼ばれる塗り薬は効き目が怪しいので、「Pommade Magique(ポマードゥ・マジック)」(魔法の塗り薬)と例外なくみんなに呼ばれていた・・・。

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