B 204 芸は身を助ける

1990年1月3日(木)

6時少し前に起床。洗面、髭剃り。朝食時、ここ営倉には椅子がない事がわかりテーブルのコーヒーやパンを立ったまま取った。「まじか!」と思った。営倉は罰なので楽なことは何もない。中隊から迎えが既に来ていて街中にある基地へ戻った。

 

午前中は「P C=パルクール・ドゥ・コンバッタン」(フランス軍の障害物走)であった。4分を切らない連中は2度やらせられた。僕はこの「P C=パルクール・ドゥ・コンバッタン」は特に得意ではないので僕も2度やらされた。ヒドイ奴になると4度もやらされて見ていて気の毒になった・・・。

 

1990年1月4日(金)

一日中テストのために復習した。夕方は8kmTAP(8キロメートルをフル装備で走る駆け足、背嚢や小銃などと)39分であった。左足のアキレス腱が痛んだ。だがいつもよりいいタイムで終わる事が出来た。

夕方営倉へ戻るといつも通り司令部の掃除だったけれど、疲れてしまって階段のところで思わず座り込んでしまった。それを見たソルネアが「いいからそのまま寝ていろよ!」と言って掃除をしてくれた。あと一晩の辛抱だ。

 

1990年1月5日(土)

午前中は復習。午後は各種テストだった。日曜日ではなく月曜日にカトリックの「公現祭」で、士官連中と下士官連中が集まってお祭りをするらしかった。そこでまたギターを弾く様に命令された。しかし、今日土曜日に営倉に入ると日曜日には出倉出来ない規則があり、明日の午後に予定されていたリハーサルが出来ない。そのことをカノア軍曹に尋ねると、中隊付き曹長の所に行き聞いてくれた。なんと!ギターを弾く代わりに営倉には行かなくて良いということになった。おまけにそれで処分は終了という事になった!まったくもって信じられない事だったが、芸は身を助けたのだ!

僕と同じ日に帰隊遅延したソルネアは昼食が終わってすぐに営倉へ連れて行かれた。僕は1時間20分の遅刻、彼は2時間30分の遅刻で、2時間未満だった僕は4日間の簡易営倉、だが彼は7日間の簡易営倉と僕より長かった。土曜日の午後半日と日曜日1日中、何かしらの雑用をさせられるはずで、彼に対してすまないと思った・・・。たった2日間の簡易営倉であったが、「もう2度と営倉には入るまい!」と誓ったのであった。幸い18年間の外人部隊人生で営巣に入ったのはこれが最後であった・・・。

 

夜は久々に何人かで酒保へ繰り出してビールを飲んだ。しかし、その時に食べたソーセージにあたって夜中にもどしたり下痢になったりして大変な目にあった。他のソーセージを食べた連中も同様だったらしく散々だった・・・。

 

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