B104 外人部隊では「盗まれる方が悪い?」

1989年9月7日(木)

午前中は、いざ出動の時のために、VAB(装甲車)とトラックにどの装備をどこに積むかという訓練をした。特にどこに何があるかというのは完璧に知っておかなければならない。必要なものを素早く取り出せるためだ。軍曹になると、自分の分隊に装甲車1台を与えられるのだけれど、一度他の連隊(歩兵部隊と4RE)に僕の装甲車と、その装備品を装甲車の前に並べて説明した事があった。その時歩兵部隊の連中は、「これ全部が工兵の分隊の装備なのか???」と目を丸くして驚いていた。それだけ工兵部隊の装備品は多いのだ。

午後も同じ訓練で、なんだか退屈だった。夕方はまた水泳だった。手足のない人間の体をした重りで、救難の訓練をやった。今日は調子がイマイチで上手く泳ぐ事は出来なかった・・・。

 

1989年9月8日(金)

朝から演習出発の準備だった。小隊はVABが3台とトラック1台。それらの車両に全ての装備品を積んだので、何時間かおきに車両のガードが回ってくる。目を離すと備品など盗まれるかも知れないからだった。最初信じられなかったけれど何年かするとなぜか規定数以上のシャベルやチェーンが小隊の倉庫にあったりして不思議に思った事があった。どこかの小隊か中隊の誰かが目を離したか起き忘れたやつを失敬してきたのだった。とにかく油断も隙もないのが外人部隊だった。同じ中隊内だけではなく連隊内のあちこちでそのような事が頻繁にあるのだった。盗まれる方が悪いという理屈であった・・・。装備品点検の時何か不足があって、物によっては書式の決まった手書きの報告書(始末書)だけで済む場合と、下手をすると営倉に入る場合があるからである。まだ新兵扱いの僕は信じられなかったけれどそれが通常であった。これは除隊するまで変わりはなかった・・・。

夜中のガードが回ってくるだろうなぁ・・・と思っていたら、今朝帰隊遅延の奴が何人かいてその連中がつくという事で少し安心した。

 

1989年9月9日(土)

午前中は中隊隊舎全ての掃除と隊舎の周りのゴミ拾い、レーションの配分などで終わった。今日はガードが回って来なかったので少しゆっくりしていた。午後は昼寝をして夜にゆっくり背嚢の準備でもするかと思っていたら、タケシタくんから「今夜飲まないか?」と誘いがきた。週末は大体日本人3人で飲む事が多かったので、背嚢の準備を急いでして、明日演習に出かけるので、21時までという事で、ビールを1ケース買ってきてビトウさんの部屋で飲んだ。明日から演習だ。歩兵の演習と違うので楽しみだった。

 

1989年9月10日(日)

7時起床、9時過ぎに武器庫へ行き、12,7ミリ重機関銃やFA -MASなどを出し、機関銃を車両に搭載したりした。他にやる事がなかったのであっという間に出発準備が出来てしまった。11時に早めの昼食を取って12時半に装甲車に乗車した。連隊のほとんどの車両が集合して順に営門を出ていく様はまるで戦争映画のようであった。2時間半ほど走って山の中に停車した。急いで木の枝などで装甲車に偽装を施したら夕食の時間になった。太いバゲット(パン)を1本もらい、「火曜の朝までの分だ!」と言われた。レーションもあるので随分贅沢だなぁと思ったのは新兵訓練の記憶がまだあったからに他ならない。パンの他に豚肉一切れ、ゆで卵、小瓶のジュースの配給もあったので、レーションに手を付けなくてもよかった。22時から24時、5時から6時までのガードがあるのでもう寝よう・・・。

 

翌朝、メキシコ人のロメロが潰れたヘルメットを持って立ち尽くしている。周りはゲラゲラ笑っていた。カノ・シルバに聞くと、軍の車両は停車した時パーキングブレーキの他に車両留めと言ってタイヤの下に楔形の物を入れて傾斜で動いたりしないようにするのだけれど彼は自分のヘルメットを車両留めの代わりに使ったのであった。工兵用のVABは、全装備を積むと13トンの重さになる。でかい石でも置いておけば良かったのに。中尉も呆れて言葉が無い様だった。

 

読んでくれた人、ありがとう