B054 1989年5月11日(木)「パルクール・ド・コンバッタン」と罰

午前中は89ミリ携帯ロケット砲の射撃姿勢とFA -MASの実弾射撃だった。今日はあまり当たらなかったので中尉にジロっと睨まれた・・・。

午後はビュルネルへ行ってこのロケット砲に小銃弾発射装置を付けての射撃だった。しかしこれでいい成績を出すと、携帯式とは言えこの長くてガサばるロケット砲の射手に任命されるのでそこそこの所で止めておかなければならない。

やはり射撃だけではなかった。そんなに甘い話がある訳ない。今から「パルクール・ド・コンバッタン」(障害走)のタイムを測るという。1回目は5分11秒であった。1回で終わりだと思って油断していたらやはりロサ・ファテラ上級軍曹に呼ばれた。もう1度やれという。しかし1回目を終えて体がすっかり目覚めたので、2回目はうまくタイムを縮められるのではと甘い考えを持ちながら2回目を走った。しかし500メートルの中に20もの障害物があり、ひとつ超えてもすぐ次の障害物にアタックしないとならないので休んでいる暇はない。2回目は4分50秒だった。少しは縮まったけれど全然まだまだだ。イギリス人のネイピエは3分45秒という事でロサ・ファテラ上級軍曹に褒められていた。

ネイピエはイギリス海兵隊に入隊してそれから海兵隊特殊部隊のSBS(Special Boat Service)に入った軍曹で、フォークランド紛争にも参加した。17才で軍隊に入り今28才なので軍隊歴11年のベテランなのだった。なので小隊の伍長達にも一目置かれていた。

他の連中がやっている時に彼とゆっくり話をする事が出来た。ユーモアがありとても礼儀正しい彼を僕は気に入っていた。

「パルクール・ド・コンバッタン」を終えて走って連隊に戻ってくるともう夕食の時間だった。

しかし夕食後突然に新しく小隊にきたヴァン・ヒー軍曹の集合の号令がかかった。全員ヘルメットを被り背嚢を背負って集合という号令は廊下に響いた。そして小隊のある2階から3階へと走らされた。北の階段を3階へ上り、南の階段を2階へ下りる。何周しただろうか???そして今度はそのヘルメットと背嚢の格好で廊下を匍匐前進だ。昼の訓練で疲れている上でのこの罰則だ。一体なぜだろうと思いながら、20周も走っただろうか???いきなり「止まれ!」の号令でまた廊下に整列した。軍曹が何か言ったが疲れてヘトヘトだったので何を言っているのか分からなかった。

あとでソバージュに聞くと、モーラスというフランス人がビュルネルの訓練所に携帯シャベルを忘れて来たらしい。それを軍曹が走って取りに行って来たという事だ。

消灯後、これも小隊に新しく来た見習い伍長から最近正式に伍長になったオーストリア人のニール伍長にモーラスは腕立て伏せを散々やらされ殴られていた。それは延々夜中の1時過ぎまで続いた。皆んなはそれを当然の事の様に見ている。それもその筈、夕食後のヘルメットと背嚢の駆け足や匍匐を考えればモーラスをかわいそうだと思う奴はいなかった。酷い1日になった。

1989年5月12日(金)

今日は1日中カステルノダリーの入り口にある士官食堂での雑用だった。朝の8時半から夜の9時までたっぷり働かされ足が棒の様だ。

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