B075 1989年6月29日(木)中隊の色は黄色

午前中は掃除や荷物の整理で終わった。午後4時ぐらいにCAPLEの中隊広場に集まった。配属先別に整列した。海外に配属の連中はまだ先なので国内の連隊に配属になる連中だけだ。コルシカ島にある第2外人落下傘連隊も配属はまだ何日か先なので居なかった。

うちの小隊からは見習い伍長になる奴はいなかった。第1中隊の連中もいたので賑やかだった。僕の他に小隊からは「ビトウさん」とシャルトン、リッチモンドというイギリス人が第6外人工兵連隊へ配属になる。第1中隊からは3人いた。ヴァスコというフランス人、ヴェンナーというドイツ人、あと訛りのあるフランス語を話す黒人がいたけれど、第6外人工兵連隊へ配属になってすぐ脱走したので名前は覚えていない。

 

国内の連隊に配属と言ってもここ、第1外人連隊に配属はいなかったし第4外人連隊もいなかった。「第6外人工兵連隊」の他は、南フランスのニームにある「第2外人歩兵連隊」、同じく南フランスのオランジュにある「第1外人騎兵連隊」の3つの連隊であった。第2外人歩兵連隊に配属になる人数が一番多かった。第1外人騎兵連隊と僕ら第6外人工兵連隊に配属になる連中は人気がないのだろうあまり多くはなかった。

 

第6外人工兵連隊からは上級軍曹が迎えに来ていた。荷物を持ち上級軍曹の後ろについていく。連隊から来ているバスの荷物用コンパートメントに衣嚢や個人のバッグをしまいバスに乗り込んだ。

高速道路に入った。みんな緊張しているのかあまり口を聞かない。そのうちウトウトして来たので少し眠ろうとしたけれど、カステルノダリー以外の景色は初めてなので追い越してゆく車を眺めたりしている内にアヴィニョンの南出口を出た。だんだん街に近づいていく。大きな街だ!夕方なので少し渋滞気味だった。久々の「街!」なので街並みを見入った。そして大きな橋を渡った。後でわかるのだけれど「ローヌ川」であった。今しがた通って来た道路はアヴィニョンの環状線だった。

橋を渡ると街並みが途絶えだんだん緑が多くなって来た。そのうちバスは葡萄畑に挟まれた道路を走ってゆく。てっきり街中にある連隊だと思っていた僕は「なんか話が違うぞ???」と思い始めた。どんどん建物が少なくなって仕舞いには葡萄畑しか見えなくなった。信号もない。なんだか不安になって来た。だが何の不安だ???

やっと信号らしきものが見えた。小さな街(L’Ardoise)であった。そこの信号を左に曲がり、陸橋を越えてすぐに連隊はあった。ずいぶん寂れた場所に感じ、「アヴィニョンの近くという話はどうしたのだ!」と少しがっかりした。

営門を抜けてすぐにバスは停まり上級軍曹は僕らの個人ファイルなどを連隊当直に預けていなくなった。

一人の背の小さな伍長が引率のために待っていた。フランス陸軍初の外人部隊総監を務めた「外人部隊の父」と言われるロレー将軍と同じ名前の第3中隊の「ロレー伍長」であった。荷物をバスから下ろし衛兵詰所の壁際に置いて夕食のために20時を過ぎていたが一旦食堂へ行った。

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「外人部隊の父」ロレー将軍

食べ終わって衛兵詰所のところに戻り荷物を持ってロレー伍長の後について「第3中隊」の建物へ向かった。連隊の練兵場は広く国旗はすでに下されていた。4つの隊舎の左端、「第3中隊」に入った。入ってすぐの中隊当直の事務室で一人一人到着の申告を週番軍曹にする。週番伍長が僕らの身分証を見ながら名前と認識番号をメモしている。

 

それらが終わって3階の居住区へ向かった。ロレー伍長が適当に部屋割りをして僕は左奥から2番目の部屋に行けと言われた。入ってすぐ右のベッドを使えという。シャルトンも同じ部屋になった。右奥のベッドはベール伍長と言った。他にゴルディナ伍長、ドレゼ1等兵がいた。ドレゼは24缶入りのオレンジジュースの1パックをテーブルに置くと「勝手に飲んでいいぞ!」と言ってくれた。それから中隊の色の「黄色」のランニングシャツを投げて寄越した。フランス陸軍では中隊は色分けされている。外人部隊も例外ではない。第6外人工兵連隊では第1中隊は「青」、第2中隊は「赤」、第3中隊は「黄色」、支援中隊は「黒」、本部管理中隊は「グレー」であった。後に出来る第4中隊は「緑」、連隊が海外作戦でいない時に留守を守り同時に新兵の工兵に関する訓練を行う中隊は「水色」であった。

 

読んでくれた人、ありがとう

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