B 258 第3中隊第2小隊に配属

    第4外人連隊へは、荷物が多いので、アヴィニョンの街まで行ってレンタカーを借りることにした。ちょうどいい車があったので、連隊まで乗って帰った。荷物は100リットルと90リットルのキャンティーンロッカーが2つと背嚢と衣嚢であった。第4外人連隊には日本人で始めて下士官になったサイトウさんがいた。彼は昔第2外人落下傘連隊にいて下士官の間で有名だった。何しろ日本人で唯一の下士官であったし、武勇伝も色々とあった。彼の下士官宿舎の部屋で荷物を預かってもらい、正式の移動になったら引き取るということで話がついた。その足でアヴィニョンへとって返し、車を返して連隊へ戻った。正式の移動日は定かでは無くなったが、1995年7月だった様に記憶している。

    第4外人連隊では、第3中隊第2小隊に配属になった。小隊長は、あの下士官訓練で世話になったポーツェネム曹長であった。上級軍曹からの昇進であった。ただ、彼は今の小隊の教育が終わったら第2外人歩兵連隊への移動が決まっていた。その当時足を骨折していたが、ギプスの足ながら腕立て伏せをしたり、相変わらずのバイタリティーであった。僕の配属を喜んでくれた後、当時の軍曹訓練の話で盛り上がった。そのあとは何をしていたかなど色々と聞かれた。

    同僚はというと、第1分隊長は第2外人落下傘連隊から来ているトルコ人のチムラン軍曹であった。第2分隊長は第2外人歩兵連隊の十迫撃砲小隊から来ているドイツ人のシュミット軍曹であった。僕が一番若いので第3分隊長を任された。SOA(Sous-Officier Adjoint=小隊次席下士官)は上級軍曹(シェフ)デュミであった。チムラン軍曹はガタイがよく、スポーツ万能っぽかった。シュミット軍曹はちょっと太めで落ち着いていた。ポーツェネム曹長に変わってアンドレス上級軍曹が小隊長としてやって来た。すでに曹長の昇進が決まっていた。彼は以前は第2外人落下傘連隊にいて、そのあと、南米フレンチギアナにあった第3外人歩兵連隊にいて、シェフ・デュミと一緒だったらしく、とても仲が良かった。
    僕は、まだ下士官宿舎を当てわれてはおらず、新兵たちがいる中隊の建物の一室を借りて住むことになった。そこには、イギリス人のクンリッフ軍曹がいて、僕と交代で再び第2外人歩兵連隊へ帰るとの事だった。 

    他の小隊の軍曹連中も僕と同じで1年間の期限付きで新兵訓練軍曹として配属された連中なので、第2外人歩兵連隊や、第2外人落下傘連隊の連中が多かった。僕と同じ第6外人工兵連隊から来ている軍曹は記憶にないので、僕だけだったのか。記憶にはない・・・。1個小隊4ヶ月の訓練を3個小隊行うので、自由の身になるのは1年以上かかる。それがこれから始まるのだ・・・。もう第4外人連隊のあるカステルノダリーに来てしまったし、もうどこへも行く事は出来ない・・・。僕は腹を括り、これからは新兵訓練軍曹として頑張るしかないと決意を新たにした・・・。

                   読んでくれた人、ありがとう

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