1991年10月某日
伍長としての仕事は大したヘマも無く再び第4外人連隊へ行く日が来た。自分の荷物が入った背嚢やダッフルバッグなどを連隊のバスに積んだ僕ら第6外人工兵連隊の下士官候補生はアヴィニョンの駅へ向かった。移動は制服姿である。全くワクワクしない電車移動であった。「またあそこに戻るのかぁ・・・。」と、少し諦めに似た様な感じがあった。反面、「どんな奴らがくるのか???」というのも気になった。支援中隊から来ている連中は3人いたので、彼らは集まって話をしていたが、僕はたいして連隊には知り合いはいなかった。それはそうだ。伍長として第4外人連隊に長くいたからだ。この時初めて第1中隊から来ていたユーゴスラヴィア人のリバー、第2中隊の無線士でフランス人のラニェーと話をしたほどだった。でもなかなかいいやつそうだった。同じ中隊にいたイタリア人で上級伍長のパスクァリと会話らしい会話したのは今回が初めてであった。
カステルノダリーの駅に着いた。連隊のバスが既に僕達の来る事を知らされていたので、駅のはじの方に停まっていた。急いでバスに荷物を積み込む。ついに再びこのカステルノダリーへ戻って来たのであった。
連隊のゲートを過ぎて右に曲がる。武器庫の前を通ってすぐにバスは止まった。管理者養成中隊の建物だった。そこへ着くと先に着いていた奴が出て来て僕らの居住区に案内された。部屋割りは既に出来ていて僕は最初の部屋になっていた。パスクァリも同じ部屋であった。そのほか、第2外人落下傘連隊から来ているフランス人のカーン、第 1外人騎兵連隊から来たデンマーク人のトルニセン、第4外人連隊でメカニックをやっていたフランス人のカフマンがいた。1部屋5人だ。新兵訓練と全く違い、8人部屋でギュウギュウという事はなかった。ロッカーなども、フランス軍で最近出て来た大きい収納の新しい物であった。訓練小隊は2個あって、僕らは2個目の方だった。1個目の小隊の方は騎兵科の中尉が小隊長であった。僕ら2個目の小隊長は先任下士官だった。外人部隊に既に30年近く勤務している。筋金入りの下士官で、ポルトガル人の、であった。そのほかに次席指揮官はフランス人のポーツェネム上級軍曹、インストラクターとしてベルギー人のロドリック上級軍曹、イギリス人のメロー軍曹などがいた。メロー軍曹は僕が新兵訓練をやった第3中隊に軍曹として既にいた。ポーツェネム上級軍曹はイカツイ顔をしていて外人部隊で久々に怖そうな下士官を見た。ロドリック上級軍曹は当時もうフランス領ギアナに行ってしまった先輩であり日本人のサイトウさんを知っているようで、何かと僕に話しかけて来た。メロー軍曹は一番ここでは階級が低いので黙っている。
*上級軍曹(Sergent-Chef)は、フランス軍では単にChef(シェフ)と呼ぶのでこれからそう呼ばせてもらいます。
部屋に入ると、僕はいつものごとく荷物をロッカーに順序よく整理していった。廊下には既に日程表が貼られてあった。それによると、明日中隊長に全員揃ったということを報告してすかさず荷物の点検などを行い、それから管理者養成中隊の野外訓練所へ移動とあった。それから「日番候補生」というのがあって、これはいわゆる日番伍長の様なもので、朝昼の集合時のシェフへの申告などいろいろな仕事がある。翌日の命令書を書き取って張り出すのも仕事である。そのほか掃除登板なども張り出す。僕と伍長訓練コース同期のサルヴィがいた!お互い再開を喜び合った。彼は勤続2年6ヶ月、もう一人シェピンスキーというポーランド人もいた。奴は僕が新兵訓練伍長時代に同じ中隊にいて、伍長見習いから知っていた。勤続2年4ヶ月と若かった。僕ら3人だけが勤続3年未満で、他の連中は勤続5年弱とかが多くて、一番長いのは第2外人落下傘連隊から来ているフランス人の6年5ヶ月であった。これからは上級者に向かっては自分の事は「下士官候補生何某、勤続何年、管理者養成中隊、ド・カルモ先任の小隊」と申告しなければならない。
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