B 234 悪夢の駆け足

1991年11月某日

駆け足など大分下士官訓練に慣れて来たところで、今日は15キロメートルのフル装備の駆け足の日だった。背嚢には毛布を詰めたりしたのだが、重過ぎず軽過ぎず8キロの重さにするのに苦労した。なにしろ連隊のスポーツ係が秤を持って背嚢の重さをスタート前に測るという事でみんな緊張した。走るコースは、連隊の裏を流れるCanal du Midi(ミディ・運河)であった。7・5キロメートル走ってU・ターンしてくれば15キロという事だった。

 

僕ら小隊の連中は緊張の面持ちで日番候補生の後ろについて出発地点へ向かう。出発地点へ着くと、連隊のスポーツ係のシェフがいて背嚢の重さを測るから「休め!」と号令をかけた。背嚢一つずつ測り出した。あまり重いのはシェフが点検して丁度良いぐらいの重さになるように背嚢に入っているものを何か減らすように言っているようであったが、1キロや2キロ重いぐらいでは特に何も言われなかった。僕は10キロ弱だったので何も言われなかった。それよりF A -M A Sの持ち方だった。右脇で挟むように持つというのは以前の経験から知っていたのでそうする事にした。銃床部分を背嚢についている持ち手に通した。通常通りに首から掛けるという事をしている連中もいたが、走りにくい筈だ。銃剣も問題であった。鞘の部分を上に向けた方がいいというのをこの時覚えた。水筒は装具のベルトから外し、背嚢の中へ入れた。走る時にブラブラして邪魔なのだ。

 

全員準備が出来たようだ。位置に着く。出発。走るのが得意な第2外人落下傘連隊から来ている連中が多かった。走る部分は砂利道であったがその脇は芝生であったので、僕はそこを足を滑らせるように走った。この下士官訓練コースで決まっているのはこの15キロのコースは2時間以内で走破する事と決まっていた。僕は前を走る仲間の中からスピードが早くも無く遅くも無いやつに着いて行くことにした。同じ部屋の第2外人落下傘連隊から来ているフランス人のカーンであったのでなんとかいけそうであったけれど、行きの7・5キロは緩やかな下り坂であったので帰りが大変だ。足を滑らせて進むには具合の良い芝生の上を進んでいく。僕にとって未知の世界だった。僕は慎重に運河にある水門の数を数えることにした。何番目の水門でUターンの場所か解るからだった。延々と続く道を走っていると「4キロ」と書いたパネルの付いた樫の木が見えた。普通に8キロメートル走る連中はここでUターンするのかぁ・・・。と重い気分になった・・・。

 

そのまま走って何とかUターンする7・5キロのパネルを見つけた。教官でベルギー人のシェフ・ロドリックがそこにはいてみんなに声をかけていた。「その調子でいけ!」と声をかけられた僕は少し元気が出たけれど、帰りは登り道だ。 この軽い登り道はキツかった。僕は「次の水門!」と自分に聞こえるように言い黙々と進んだ。カーンは相変わらず良いペースで走っている。僕の足は上がりづらくはなって来たけれど、芝生のおかげで順調に進んでいた。がっくりしたのは8キロメートル走る連中がUターンする場所にあったパネルを見た時だった。まだ4キロも残っている!まじか!という思いだけであった。だが順調に進んでいる。というよりこれをクリアしないと下士官になる道は閉ざされるのだ。そんな事は僕の外人部隊生活の予定には入っていなかった。

そんな事を考えながら進んで行くと、人だかりが見えてきた。ゴールだ!まだ力が残っていたのか!という自分でも信じられない感覚が沸き起こってきて、ラストスパートをかけた。結果は1時間20分であった。なんとか15キロメートルを走り切ったのだ!

小隊で10番目ぐらいだったか???1番はジブチ帰りで今は一時的に第1外人連隊にいる、アメリカ人のギルモアだった。1時間5分だった。上には上がいるものだ!だけれど、僕は自分を褒めてやった。2時間という時間制限のもと、1時間20分で走り切ったのだ!もう2度とやりたくないと誰もが口にしたこれをあと数回やる羽目になる・・・。

 

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