B 229 軍曹訓練コースへ
1991年 某日
ある日、中隊長室に呼ばれた。昨日に書かれた小隊の今日の命令書に書いてあったからだ。何かな?と思って時間通りに中隊長室前に立って待っていると、新しい小隊長が配属前なので、小隊長の代わりとしてマティラ上級軍曹が中隊長室へ入ってゆく。
しばらくして僕の名前が呼ばれた。別に罰を受けるわけではないので、この日は戦闘服にケピという格好だった。中隊長の前に行って敬礼してケピを脱ぐ。階級、名前、勤続年数、所属を申告する。「休め!」と中隊長のジュリアン大尉はゆっくり言った。「元気か???何か問題はあるか???」など聞かれた。「いいえ、何も問題はありません大尉殿。」と元気に答えた。すると中隊長は「オイカワ伍長、10月半ばに始まるC M-1(Certificat Militaire !
Degré 軍事基礎訓練第1段階)軍曹訓練コースに君を送ろうと思っている。君はどう思う?」と言った。考えている時間はなかった。なので「素晴らしい機会だと思います。」と答えた。中隊長は一言「わかった。」とだけ答えて「退室!」と言った。僕は退室した。マティラ上級軍曹はその後何分か中隊長室に残って中隊長と何か話をしている様であった。
マティラ上級軍曹が中隊長室から出てきた。向かいにある小隊事務室へ入っていく。お前も来いと言われ、小隊事務室へ入った。マティラ上級軍曹は「お前にC M -1(軍曹訓練コース)はまだ早すぎる!」だのとにかく僕を軍曹にさせたくない口振りであった。次に中隊長に呼ばれたら辞退しろ!とまで言われた。僕はこのマティラ上級軍曹の東洋人嫌いは知っていたので、何も答えなかった。最後に「わかったな!」と言われたけれど、僕は辞退する気はさらさら無かった。逆に「これはチャンスだ!」と思った。外人部隊を5年で辞める前に軍曹ぐらいまでなりたいという夢は持っていた。なので本当にチャンスだ!しかし若すぎるというのも知っていた。この当時、軍曹訓練コースへ行く連中は大体勤続年数が5年前後の連中ばかりでそれも既に最初の基礎契約5年からの再契約をしている人間ばかりであった。僕はこの当時まだ勤続年数2年7ヶ月ちょっとぐらいだったか???しかしそんな事はどうでもよかった。
連隊のスポーツを取り仕切るスポーツ課の事務所から、次の軍曹訓練コースへ行く連中用に訓練プログラムが出された。15キロT A P(戦闘服に背嚢重さ8キロF A -M A Sで15キロメートル走る)のほか、パルクール・ド・コンバッタンなど色々あった。指定された日に背嚢を背負ってスポーツ課の事務室前へ行った。その日は僕一人であった。連隊では8キロメートルは走るけれど、15キロメートルは無かった。この15キロメートル駆け足は軍曹訓練コースでは普通だった。僕は連隊で走る8キロメートルのコースを2周弱走った。タイムは1時間半ぐらいだったか???スポーツ課の伍長が付いていたけれど一応オーケーをもらった。この15キロT A P(戦闘服に背嚢重さ8キロF A -M A Sで15キロメートル走る)は僕が軍曹訓練コースに行った時はまだあったけれど、僕のあとの軍曹訓練コースから無くなって8キロメートルになったそうだ。負担が多過ぎるというのが理由であった様に聞いた。ただこの時は、遊びに行くわけではないという気が強かったのか何とも思わなかった様な気がする。ただ下士官、特に軍曹は兵士の先頭に立たなければならないし何でも知っていなければならない。僕が第4外人連隊で世話になったモンパ軍曹にしてもアレン軍曹にしても常に先頭に立って何でも知っていた。この2人にはいろいろな事を教わった。15キロT A Pはキツいだろうけれども、やってやるぞ!という気が湧いて来たのは彼らのおかげだった。
読んでくれた人ありがとう