アフリカ中西部某国日記2-3

今週はいい事があった。あの重くてがさばる防弾ベストの着用義務が解除されて着なくてもいい様になったのだ。ただしヘルメットはそのままだ。なぜなら装甲車の内部というのは突起物が数多くあり、悪路を走ったりした時にぶつけてしまって頭部を負傷する事があるからだ。それとH型のシートベルトも着用する様に言われている。ガッチリしていて事故の時はしっかり体を固定してくれる様になっていて少し安心だ。マルタンや数人は「俺は装甲車には慣れているぜ!」と言った感じでヘルメットを着けずシートベルトもしていない。それが危険なのだ。

ここで使用している装甲車は南アフリカ製の「ピューマ」と呼ばれる装甲車で車高が高かったので、毎日往復での乗り降りは膝の悪い僕にとっては難儀であった。

 

翌日、見たことのある迷彩塗装を施した車列とすれ違った。フランス軍の車列(VBL=Véhicule Blindé LégerとVAB=Véhicule de l’Avant Blindé )であった。このアフリカ中西部にもフランスの装甲車両が来ていたのだ。残念な事に、僕らも装甲車の中だし会話は出来なかったけれどなんだか懐かしかった。

 

可笑しい事件もあった。マルタンの部屋はアフリカ中東部のブルンジから来ているブルンジ人のテランスの隣なのだが、テランスが夜テレビを見ながらチャンネルをいじっていた。「さて、どのチャンネルを見ようかな???」。そうすると、テランスがチャンネルを変えるたびに隣部屋のマルタンの部屋のテレビのチャンネルが突然変わるのだ。マルタンは今まで気分よく見ていたテレビ番組のチャンネルが突如別の番組をやっているチャンネルの変わってしまって「なんだ、このテレビ???」と不思議がっていたというのだ。おまけに彼の部屋はよく停電になるらしかった。エアコンが止まってしまって暑さで目が覚めるという事らしかった。

 

フランス人のマルタンとはフランス外人部隊で2等兵だった頃、同じ2等兵で同じ中隊にいた。2、3ヶ月僕より早くの入隊らしかった。別の小隊だったが、一緒に中央アフリカへ4ヶ月行ったこともあった。奴は口が悪く、アジア人と黒人に偏見を持っていた。僕た当時フランス語が上手く話せなかったのでよく馬鹿にされた。3年が経つと僕はすでに軍曹でマルタンはやっと伍長になったという間柄であった。彼が伍長としての初警衛の時、僕が軍曹で警衛長だった。その時のことはよく覚えている。マルタンは伍長という階級に物を言わせてよく部隊兵たちに腕立てをさせていた。威張るという奴だ。僕は隣の小隊だったけれど、見ていて胸糞が悪かった。そういう奴なので今は少し丸くなったけれど信用はしていない。悪い奴ではないと皆言うけれど、僕は2等兵の頃の奴を知っているのでそうは行かない。

それにホテルの従業員への口の聞き方も良くなかった。今は各自の契約での仕事なのであまり気にしない様にしている。とにかく自分は特別だとでも思っているかの様だった。

しかしここアフリカ中西部での仕事はマルタンが下士官コースの訓練のチーフと言う事なので奴に任せて僕は遠くから見守ると言うことをしている。昨日は僕の専門の講義で僕がやったけれど、そのほかはマルタンに任せた。

マルタンはよく「外人部隊では下士官だった!」と威張るけれど、何ヶ月下士官だったんだよ?と突っ込まずにはいられない。僕は18年在隊中15年下士官だった。おまけに曹長にまでなった。だが威張り腐っっているお前はたかだか軍曹だったんだろ?それに僕はマルタンが上級伍長だったのは知っている。だが下士官だったと言う話は聞いた事がない。

 

この仕事が終わったら膝を日本のお医者さんに見てもらう予定だ。フランスの医者は「膝の炎症ですね。炎症止めの薬を出しておきます」と言うだけでそれ以上話は進まない・・・。普通に歩くのもキツくなって来た。手術が必要であることはわかっている。数カ月のリハビリなどを含めてしばらくは休業しなければならないだろう。だがそれをしなければその後の仕事に支障をきたす。それにもう歳でこれ以上先延ばしにして車椅子などの生活は御免だ。まだ日本では隔離期間があるらしいけれど、日本へ帰って膝をどうにかしなくては。

 

読んでくれた人ありがとう

コメントを残す