B 212 伍長としての初警衛

1990年2月5日(火)

午前中はパルクール・ド・コンバッタン、その後は中尉のフランス語の授業。午後は射撃。武器手入れが長引き夜の21時ごろまでかかった。非常に草臥れたが、新兵訓練伍長なのでそんな事は言っていられない・・・。

 

1990年2月6日(水)

一日中新兵達は教室で授業だった。明日はガード24H(警衛)だ。伍長として、そしてここ第4外人連隊でガードにつくのは初めてだ。原隊と違うのできついだろう・・・。夜は中隊クラブで新兵訓練を一緒にやったイギリス人のリスターが一度除隊したけれど再び志願してここにいるので懐かしい話をした。

 

1990年2月7日(木)

衛兵が新兵なので、伍長の僕は一日中外にいなくてはならず、おまけに雪まで降り出し凍ってしまいそうだった。営門前は営巣に入っている連中が毎朝暗いうちから水を撒いてデッキブラシで綺麗にするというのが毎朝の仕事なのだが、この日は相当気温が低くなったらしく撒いた水が撒いたそばから凍っていくのがわかった。だが寒いのは衛兵をしている新兵も同じだ。僕は気合を入れた。連日の寝不足で少々疲れ気味の僕を第2外人歩兵連隊から来ているモンパ軍曹のおかげで少し仮眠を取ることも出来た。あまりに寒いので、衛兵詰所の真向かいの、口うるさい事で有名な連隊総務のメキシコ人のペレス=プリア上級曹長が「ガードはマント着用!」と命令を出した。モンパ軍曹はすかさず小隊へ電話をして準備をするように連絡した。ただ、制服用のマントは誰も着用した事が無い代物で、衣嚢の中の肥やし的な存在であった。おまけにこのマント、ボタンが全てツルツルのやつで、「外人部隊」と書いてある奴では無いので、1着につき全部で6個なのだが、それらを付け替えたり階級章(今日の場合はモンパ軍曹と伍長の僕)も付けなければならず、伍長の階級章の付いた制服用のマントが衛兵詰所に届いたのはもうすでに朝の10時を回っていた。流石に寒いと言っても明け方ガードについた時が一番寒く、10時ごろになると日が差して暖かくなってくる。一度赤の房の付いた肩章と青のカマーバンドを外してマントを着込む。それに先程外した赤い房の付いた肩章とカマーバンドを巻き直して一丁上がりという具合。しかしこのマント、流石に誰も来た事が無く、古い作りで生地が硬くて分厚いので、敬礼するのに大変であった。このマントを着ると、身体中がガッチガチになって何も出来ない代物であった・・・。おまけに重い。夕方戦闘服に着替えるため部屋に戻った。一人で脱ぐのも大変であった。戦闘服に着替え終わると、体が軽くなったような気がした。この時部屋に帰って、新兵の一人に写真を撮ってもらったけれど、この旧式のマントを外人部隊の在隊中、着たのはこれが最初で最後であった。

第4外人連隊での警衛(ガード)は軍曹も伍長も休む暇がなく、たまにモンパ軍曹が「オイカワ、タバコ吸ってこい!」と言って外に出て来て僕と交代してくれたから何とかなったようなもので、それ以外は非常に大変な勤務であった・・・。

 

読んでくれた人ありがとう