B 203 営倉

1990年12月31日(月)

一日中教室で講義。今日は年末なので僕らは外出が許可されていた。夜になって21時ごろ外出した。基地を出るとすぐにカステルノダリーの街の中心地なので、すぐの所にあるパーキングの脇のホテルに聞いてみたら部屋が空いているという事で部屋をとった。そこのホテルは1階がレストランになっていたのでそこで食事をした。初めて一人で新年を迎える事となった。とても寂しく感じたけれど、伍長訓練が終わるまでの辛抱だ。

 

1991年1月1日(火)

昼ぐらいに起きた。日本の家族へ国際電話をかけて新年の挨拶をした。皆元気そうだったので何よりだ。

昼食は再びホテルの1階のレストランでとった。あとは一日中部屋でシンカイさんに送ってもらった日本の雑誌を読み耽った。夜遅く夕食をとって部屋に戻った。

 

1991年1月2日(水)

4時に起きて5時の門限に間に合うように部屋の電話についているアラームをセットしたのに起きたのは6時5分であった。完全に帰隊遅延だ。パニック状態になりながら急いで制服を着てケピを被り基地へ急いだ。基地の近くのホテルを利用したのは幸いであったが。だが基地の週番軍曹のところについたのは6時15分で、既に手遅れだった。もう訓練を続ける事は出来ないだろうなどと考えていた。これでもう伍長にはなれないだろう・・・。この時の反省から、現在まで目覚ましは二重にかける様になった。なのでこの時の外人部隊での帰隊遅延は最初で最後であった。小隊事務室でレイ曹長に帰隊遅延の報告をした。中隊長との面接は14時だ!と言われた。

14時になった。中隊長室へ入る。中隊長には「簡易営倉4日!」とだけ言われた。処分を告げられたけれど、「簡易営倉?」であった。簡易営倉とは、日中は他の連中同様の訓練をして、稼業終了時から翌朝の点呼まで営倉に入るというもので、通常の「営倉」に24時間拘束される訳ではない事をこの時に知った。僕の他にソルネアという第2外人歩兵連隊から来ているやつも帰隊遅延者だということもわかった。

夕食もそこそこに僕とソルネアは郊外の新しい基地にある営倉へ連れて行かれた。少しして営倉管理の上級伍長に「司令部の建物」に掃除を命じられた。2人で掃除用具の箒や雑巾などを持って司令部へ向かった。建物は2階作りで、2階から1階の廊下を掃除するのが役目だったのでさっさとやったつもりだったけれど2人なので時間が結構かかった。営倉に戻ると点呼があり、それが終わると雑居房へ入れられた。空いているベッドを見つけてシーツのないベッドで眠った・・・。連隊に戻されないだけでも良かったと思った。とりあえずは伍長訓練を続ける事が出来るのだ。ただこの時強く思ったのは「もう2度と営倉なんかには入るまい!」という事であった・・・。

 

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