B 206 試験の日々2

1990年1月13日(日)

午後3時ごろ出発。夜はノートなどをチェックして明日からの試験に備えた。

 

1990年1月14日(月)

4時半起床。朝食後、8つある試験のための場所ごとに分かれた。試験は地図を持って試験場所をオリエンテーリングの要領で8箇所の試験場所を回るのだ。

10時少し前、地雷と爆薬の試験場所から僕はスタートした。トータルで10キロほどのコースになっていた。僕らはフル装備で背嚢も背負っていたのでくたびれた・・・。軍用車両識別の試験場所にいた試験官の軍曹は日本人贔屓で高い点をつけてくれた。以前日本人部隊兵と仕事をした事があったそうだ。僕が答えに詰まるとなかなかのヒントを言ってくれてそのおかげで答える事が出来たのだ。色々な試験場所があり、一番最後の8つ目の試験場所は「無線機」だった。そこにたどり着いた時はすでにクタクタであった。おまけに一日中曇っていて雪もちらついていた。ひどく寒い。ややもすると気が滅入ってしまいそうな天気であったけれど、伍長訓練の最後の山場と思うと気合が入った。次の場所へ移動している時に、今は軍曹訓練コースにいる、新兵訓練でお世話になったロサ・ファテラ上級軍曹にはっぱをかけられたせいもあってどうにか終わる事が出来た。明日は8キロTAPの駆け足と分隊指揮のテストだ・・・。

 

1990年1月15日(火)

5時前に起き、背嚢を整えた。昨日レイ曹長に「明日は貴様は43分で走れ!さもないとぶん殴るぞ!」と怒られ葉っぱをかけられた。今も左足首の踵というかアキレス腱が痛くて両足とも調子が悪かった。どうなる事だろう・・・。どうにか43分台で走る事が出来た。2度とまともに歩く事が出来ないのではないかというほど足が痛かったけれど、とにかく終わったのだ。

分隊指揮は緊張して少しヘマをしたけれど、どうにか無事に終わった。しかし全てのテストが点数になって表されるので最後まで自分がどれくらいの成績かどうかはわからない・・・。とても不安だったけれど、あとは明日の「パルクール・ドゥ・コンバッタン」を残すのみだ・・・。

 

1990年1月16日(水)

PC(パルクール・ドゥ・コンバッタン)のテストが明日に延び、ガードにつけられた。急いでガード用の服に着替えてポストについた。一日中特に何も無く少しは体を休められそうだった。しかし足の具合が悪く、明日からが少し心配だ・・・。

 

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