B 201 湾岸戦争へは行けないのか???

1990年12月17日(月)

午前中はNBCスーツの手入れをした。午後は、僕はクリスマスのスポーツ大会のバレーボールの選手になっていたので第4外人連隊の新しい基地で管理中隊と試合をした。1セット目は何とか取ったけれど、残りの2、3セットをあっさり取られて負けてしまってそれっきりであった。

ビトウさんから手紙。僕の原隊(第6外人工兵連隊)の僕の中隊がサウジアラビアへ行くという事であった。外人部隊に入ったのだから実際の戦闘に参加してみたいものだ。CM-1(軍曹訓練コース)の連中は全てテストを終え木曜日に原隊復帰するという話だけれど、第6外人工兵連隊を含む第6軽装甲師団からきている伍長訓練コースの連中もそれと一緒に原隊復帰するらしいという噂だ。しかし中隊長もレイ曹長も何も言っていないので詳しいところがわからずイライラした。第6外人工兵連隊の連中は僕も含めてサウジアラビア行きを待っている・・・。

 

1990年12月19日(水)

午前中は第2中隊とバレーボールの試合であったが、審判のジャッジミスで負けてしまった。僕ら一同で抗議をしたけれどどうにもならずとても悔しい思いをした。

昼過ぎ、再びビトウさんから手紙を受け取った。僕ら伍長訓練に来ている第6外人工兵連隊はそのまま訓練を続ける様にと外人部隊の将軍から指示が出ているという事が書いてあった。僕は信じたくなかった・・・。

夕方第6外人工兵連隊の連中が集められた。そしてサウジアラビア行きのリストに載っている名前の発表があった。僕もリエナーもリストに載っていなくて悔しくて仕方がなかった。原隊では僕らが必要ではないのか???全く訳が分からなかった。レイ曹長が何か僕らに言ってくれたけれど、全く耳に入らなかった・・・。

 

1990年12月20日(木)

午前中は第4外人連隊の新しい基地でのバスケット・ボールの決勝戦を見に行ったけれど、僕は日本人の新兵と色々と話をして過ごした。

夕方は、軍曹訓練コースの階級章授与式を手伝った。

 

1990年12月22日(土)

一日中、身知らぬ?曹長の下で焚き火に使う薪を運ばされた。しかし彼も僕らと一緒になって働き、悪い気持ちではなかった。夕方作業が終わると、僕らは彼の家へ招き入れられてご苦労だったということで一杯ご馳走になった。

基地に戻ると、エレキ・ギターやキーボードが自習室に置いてあった。クリスマスに、僕ら訓練小隊のカノア軍曹と僕とでちょっとした演奏をする事になっていた。しかしカノア軍曹は自己流でコードなどを知らないので彼に合わせなくてはならず、大変な事になりそうだ・・・。

 

読んでくれた人、ありがとう

最初からお読みいただく場合は、ホームページの「検索」のところに「B001」と入れていただくと一番最初が表示されます。以下、「Bxxx」という風に番号を入れていただけると任意のページが表示されます。例、「B037」、「B156」など。

 

コメントを残す