B149  念願のアフリカへ

1990年3月15日(木)

今日はP・Iだった。昼に小隊で医務室に行き「尻」に注射をした。何かの予防注射だろうけれど、何しろ終わってすぐに痛み出して歩き方がぎこちなかった。「尻」に注射されたのはいつ以来だろう???他の連中に聞いても「何ともねぇぞ?」と言うだけで僕だけか???

 

1990年3月16日(金)

今朝はバレーボールだったので何だか拍子抜けした。ここ2、3日は新しい隊歌の練習が始まった。2曲あったのだけれど、軍曹や伍長も馴染みのない曲らしくて手本になるものが誰もいなかった。昼前にはフラダン中尉が出来具合を観に来ると言う事だった。以前フラダン中尉指揮での隊歌の練習をした時は出来が悪くて何度も基地内を走らされた事があったのでその事が皆の頭をよぎったのは言うまでも無かった。しかし今回は中尉自ら皆に歌って聴かせてくれる指導だったので、皆ホッとした。管理中隊から来ているメカニック担当のデゴアス上級伍長が少し知っている様でそのあとからの練習は上手く行って少しずつ歌える様になった。バンドをやっていたおかげでメロディーはすぐ覚えたけれど、相変わらずフランス語の歌詞を覚えるのが大変だった。2曲目はドイツ語の歌詞の歌でこれにはみんな苦労していたけれど・・・。あとから知ったのだけれど、元の歌は旧ドイツ軍の軍歌で現在のドイツでは禁止になっていると聞いた。第2時大戦が終わって大量の元ドイツ軍人がフランスのインドシナ戦争の最中の外人部隊に志願するためやって来たのだけれど、その当時に沢山のドイツ軍軍歌が広まったものらしい。歌詞だけフランス語にしてメロディーはそのままというものもある。

 

1990年3月17日(土)

どういう訳か土曜の朝なのに連隊朝礼があった。どうやら僕らが明日中央アフリカへ出発するからという事らしかった。朝礼後はすべての部屋、トイレ、洗面所などを掃除して点検を受けて昼になった。もちろんロッカーは空。すべての不用品は小隊の倉庫の中へしまった。持っていきたい本などもあったけれど、個人の荷物には制限があるので残念だったけれど置いていかなければならなかった。明日にはパリ郊外のノジョン要塞へ行き翌日にはいよいよアフリカだ。

連隊最後の夜は何だか薄ら寂しかった。

 

1990年3月18日(日)

4時半起床。8時少し前に連隊のバスでアヴィニョンの駅に向かう。14時近くにパリのリヨン駅到着。すぐにバスでパリ郊外のノジョン要塞へ向かった。わざわざ演習地から中隊長や連隊長まで来て大変だった。

遅い昼食を取って昼寝をした。18時から22時まで外出の許可が出たので中国人のメンとパリ市内まで行き中華レストランで夕食をとって早めにノジョン要塞へ戻った・・・。

 

1990年3月19日(月)

4時半起床。掃除などをしてシャルル・ド・ゴール空港に向かった。空港まであと少しのところで渋滞になった。トレーラーが横倒しになっていたのだった。30分以上渋滞に引っかかりながらも無事空港に着き11時少し前の飛行機で出発した。チャド上空あたりで、目的地の中央アフリカの首都バンギで問題があったらしく急遽チャドの首都ンジャメナに着陸すると放送があった。ンジャメナに着くと連絡が入っていた様で、正規軍のトラックが迎えに来ていた。空気が乾燥していて曇っていて涼しい。まだ3月だからなのか???今夜の宿舎に案内されて参ってしまった。何ヶ月も使われていなかったらしく、ベッドのマットレス、枕などにはかなりの砂埃が積もっていたし、部屋中の掃除を2時間ぐらいかけてやった。なので皆くたびれてしまい早々に寝てしまった。

中央アフリカの首都バンギに向かう飛行機は明日の朝8時離陸と知らされた。

 

読んでくれた人、ありがとう