B125 戦闘服と機関銃

1989年11月4日(土)

最後のVAB(装甲車)に装備を積み込んだ。連隊の他の中隊の車両も広い練兵場に並んでいる。あとは個人の装備を積むだけだ。

夜はビトウさんが外出でいなかったので、タケシタくんと管理中隊のクラブへ行ってビールを買い込んで僕の部屋で飲んだ。

 

1989年11月5日(日)

昼に起きた。午後は背嚢に必要なものを詰め込んだりした。夕食後は小隊に新しく来たブタレブ上級伍長の親睦会をした。僕の分隊長になると言う事らしい。後で知ったのだけれど軍曹から上級伍長に降格されたと言う事だった。何をやったのかな???もと第2外人落下傘連隊にいたと言う事で、日本人の「ワタナベさん」をよく知っていると言う事で、日本人の僕はいつもなぜか「Japan Airline !」(日本航空!)と呼ばれた・・・。名前を覚えてもらうまで結構時間がかかった記憶がある。

 

1989年11月6日(月)

5時起床。VABに「100歳の機関銃」を備え付け自分の装備を積んだ。なぜか僕は今回はFA -MASではなくてMAC -50と呼ばれる拳銃だけだった。この演習期間にVABの無線手兼機関銃手の訓練をするからであった。しかしこの「100歳の機関銃」はまだそんなに詳しくないから頑張らなければならない・・・。

移動中は表が大した見えないし寒いので誰も上部のハッチから顔を出す奴はいなくてみんな寝ていた。高速道路も通ったけれどだんだん陽が落ちて後部にいる僕らは何も見えなくなってきた。その間分隊長のブタレブ上級伍長は持ち込んだビールを延々と飲んでいたらしいと後で操縦手のカノ・シルバに教えてもらった。

19時ごろ演習地のヴァルダオンについた。パーキングは宿舎から離れているので小隊のトラックに全ての武器、無線機などを装甲車から外して積んで、僕らは自分の装備を持って歩いて宿舎に向かった。雨が降っていてそのうち雪になるのではないかと言うぐらいものすごく寒い所だった。宿舎まで2キロぐらい歩いたか?取り敢えず自分の装具を置き、今度はトラックから武器や無線機を2階の居室まで運んだ時はすでに22時を回っていた。ベッドはいつもの「70」で、毛布もシーツもない。1ヶ月の演習の間は寝袋生活だ・・・。今夜はシャワーは浴びる事は出来なかった。

 

1989年11月7日(火)

午前中は、長距離を走ったのでVABの整備に充てられた。午後は早速射撃で、7.62ミリの機関銃、FA -MAS,拳銃の射撃だった。夜間射撃も今夜はやる予定だ。昼食後なのに射場へトラックで向かう時はすごく寒かった。

夜間射撃は散々の結果だった。

僕ら戦闘工兵小隊は、VAB3台とトラック1台を持っているのだけれど、そのうち小隊長のVABにはAN F -1という口径7,62ミリの、元々AA52と呼ばれている歩兵用の軽機関銃を装甲車への車載用に改良された機関銃と、もう2台のVABは、例の「100歳の機関銃」ブローニング 12,7ミリM2重機関銃を搭載している。ルノー社製のトラックもこの「100歳の機関銃」を装備しているので、合計4丁の機関銃があった。

12,7
写真はイメージです

なので全部の機関銃の射撃の後は掃除が大変であった。機関銃本体の中まで手が入らないのはもちろんのこと、何しろ部品の数がハンパじゃないしデカい。手入れには布でやるのだけれど、足りなくなるので大変であった。なので、洗面所でお湯を出して洗剤を使ってきれいに洗うという事も覚えた。熱湯の温度で部品が温まるとその熱で自然に乾いたので布の消費が減った。それにそんなに布の切れ端を見つけるのは簡単な事ではなかった。その当時の戦闘服には、首のVの字の部分から肌の色が見えなくなるように布がついていたのだけれど、その部分を切り取ったりして武器掃除に使っていた。一回使うとオイルとカーボンで真っ黒になって捨てるしかないので、3着しか戦闘服を持っていないから武器掃除は大変であった。軍曹訓練コースで演習場に行った時は布が足りなくなってワザと演習場の酒保でTシャツを買うという馬鹿な事をしたほどであった。

 

読んでくれた人、ありがとう