B093 「外人部隊規律の権化」ズィグレール曹長(Adj. ZIEGLER)

1989年8月13日(日)

              午前中はまず爆薬のテストがあった。テストが終わると、鉄道の「破壊工作」の授業だった。レールをいかにして爆薬で切断するかといった映画などでよく見るアレである。どこにどのような爆薬をどれぐらい仕掛けるかと言うのは興味があるかも知れないけれど、一般の人には必要ない事なので省略する。

午後は日曜日だしゆっくり出来る!と思っていたのも束の間、ウェンダーが脱走して明日のガード(営門の衛兵勤務)に欠員が出た。下っ端の僕に「出番」が回って来たのであった。夜8時近くまでかかってアイロンをかけたり準備をした。しかし、ハンセン伍長も一緒の衛兵勤務なので、彼に捕まってしまい何度もアイロンがけのやり直しをさせられた。この当時の夏の制服は長袖のシャツを肘上まで捲って着るのだが、その捲って見えなくなる所にアイロンがかかっていないと言ったり難癖ばかりだった。掃除にしても兎に角何かと目の敵にされた。新兵訓練より酷かった。

 

1989年8月14日(月)

5時半起床。7時前に衛兵勤務用正装でFA -MASを胸の所に吊り、ラッパ手、衛兵長の軍曹、副長の伍長、6人の兵士、そして7人目はPrévoyant(プレヴォワイヤン)と呼ばれる、6人の中に不測の事態が起きた時の交代要員兼連隊長への毎朝の勤務申告の時の服装の手直しをする係の順で中隊広場に整列する。もちろん彼も衛兵勤務用正装であった。毎朝勤務交代の前に、中隊広場で中隊付き曹長である「ズィグレール曹長」の服装検査を受けるためであった。

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映画「ワイルド・ギース」のサンディー特務曹長をイメージしていただけるとわかると思う

この「ズィグレール曹長」は歩く軍紀と言っても過言では無い人で、その厳しさでみんなに恐れられていた。曹長の服装検査さえ切り抜けられたら24時間の衛兵勤務は終わったも同然だとみな口にしていた。とにかく細かい服装検査で、必ず一人か二人瑕疵を見つけられ、営倉行きの一歩手前の「consignée」(コンシニェ)という雑用の罰を受ける。これは昼12時から中隊のゴミ拾いが始まる13時15分までと、夜は18時から20時か21時まで中隊内の普段はそんなに掃除をしない場所などの清掃だ・・・。誰かが罰を受ける事になると軍曹もタダでは済まない。勤務評定が悪くなるのだ。監督不行届きという訳だ。夏だからまだ薄暗さが助けになったが、冬は警棒ほどの大きさの「マグライト」を持って来てそのライトの明かりで、シャツの首の所がちゃんと洗ってあるかとか、隠れて見えないのだが、ネクタイの結び方や、その長さなども見られた。ベルトの緩み、青の腰帯の巻き方、頭の天辺から半長靴の先まで一人一人点検するのだった。幸い僕は一度も罰を受けた事がないけれど、中隊付き曹長と言うのは中隊の規律、中隊の先任下士官、また「管理小隊」の小隊長も兼ねる。中隊の「総務部長」と言ったらお分かりいただけるだろうか?どういうわけか、その管理小隊の連中が毎回「罰」を食らっていたので気の毒であった。とにかくこの「ズィグレール曹長」は連隊でも有名であった。一度中隊の掃除当番で、この「ズィグレール曹長」のオフィスの掃除の時、彼のデスクのところの写真を見た事があった。白黒で、「第2外人落下傘連隊」で軍曹か上級軍曹の頃にパリの革命記念日か何かのパレードで行進している時の写真であった。当時落下傘連隊や下士官が使っていた「MAT49短機関銃」を持っていたのでかなり古い写真だった。ということは外人部隊に入ってもう何年も経っている古株なのだ。今の若い部隊兵が生温く見えるのだろうなぁ・・・などと掃除中に思った事がある。

 

7時ごろ、ラッパに合わせて衛兵詰所へ隊列を整えて進んでいき、下番する連中はすでに整列をして僕ら上番が来ると「捧げ銃」をして迎え入れる。それから衛兵長同士が引き継ぎをして交代完了となる。雨が降ろうが雪が降ろうが365日、毎朝必ず行われる連隊の儀式である。この週はもう一度明後日にPrévoyant(プレヴォワイヤン)の勤務があった。この当時は最低でも24時間勤務が(衛兵勤務、P・I)3回、兵士用食堂の雑用が2回、下士官用食堂の雑用か酒保の雑用が入っていた。ほぼ毎日何かしらの勤務につけられていた。兵卒とはそんなものである。ただ、毎回の事ではあったが、「兵卒なんかで終わりはしないぞ!」といつも生意気な事を考えていた。雑用だけで外人部隊の任期5年を終えるつもりは更々無かった。

 

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