B118 ビールか暖かくて軽い寝袋かという問題

1989年10月13日(金)

午前中いっぱい ——— ロープ降下をして山を降る途中にけが人が出たという想定で急いでポンチョと、直径10センチ長さ3メーター弱の木の枝2本で応急担架を作りけが人を運ぶ訓練だった。背嚢や小銃、ヘルメットとフル装備で4人で担架を運ぶ。50メートルぐらいですぐ交替だった。それ以上だとスピードが落ちるからだった。上り道は担架のけが人の重さと、木の枝で作った担架の重さで死にそうだった。一番腹が立ったのはロペスのやつだった。一切手伝わないくせに「ほら!もっと急げ!」などという事だった。分隊の人数は限られているにも関わらず一回も担架を持って手伝おうとしない。いつか伍長になっても「ああはなるまい!」と思った瞬間であった。とにかく口だけの奴だった。

今夜も何か訓練で野営するという事だった。もうそれについての会話は無い。遊びに来ているわけでは無い。それにしてもなぁ・・・。

午後は橋爆破の訓練だった。今までやったロープを使った訓練も応用する。ロープを使って谷を渡り山を登り降りして橋を爆破しに行くのだ・・・。

21時に集合がかかり任務に出発した。星が出ていてとても寒い。ドジェイ軍曹の分隊がロープを張っている間僕らは外周警戒だ。言葉を発してはいけないのだが、ドジェイ軍曹の悪態が暗闇の中に響く。無事に小隊全員が谷を渡り橋を爆破して脱出のために山を降り始めた。誰一人として言葉を発しない。そんな静寂の中、FA -MASを構えながら進む様は何かの映画の中の特殊部隊の様だった。

野営地に着いて今夜は僕らの分隊はガードでは無いので、半長靴を脱いでゴアテックスのカバーに潜り込んだ。この時の僕はフランス軍正式装備の寝袋は重いから、ゴアテックスのカバーだけで寝る様にしていた。背嚢の重さを減らしたかったのだ。なので支給の寝袋はロッカーに入れっぱなしであった。行軍で遅れる事が1番の心配だったからだ。下士官や士官は街のキャンプ用品店で買った私物の寝袋を使っている。軽くて小さく暖かい。軍支給のやつはデカいしあまり暖かくない。それより何よりとにかく重かった。爆破任務の訓練ではいつも最低2キロ分の爆薬代わりのコンクリートを持たされたし、とにかく軽くしたかった。ビトウさんに金を借りて正規軍の酒保でナイロン製で内側がモコモコしているパーカを買ったのもこの頃だった。このパーカはとにかく軽くて暖かいので、ありがたかった。何年後かにはほぼ連隊全員がこれを着ていたにも関わらず正式装備にはならなかった。伍長になって新兵を教えることになった時に4REでは全員に支給されていたけれど。もちろん給料から引かれるわけではあるけれども。当時で250フラン(約5千円)ぐらいだったので、古くなったりしても比較的すぐ酒保で買い換える事が出来た。

出発前に小隊全員に寝袋の下に敷く厚さ1センチほどのスポンジのグランドシートをもらった。筒状にして背嚢に入れると背嚢の形が崩れないという事も覚えた。おまけにそれを使うと、背嚢の中身が多かろうが少なかろうが形が崩れないので重宝した。何しろ僕の背嚢の中にはその軽いパーカとペラペラのゴアテックスの寝袋カバー、あと何か忘れたけれど、あまり物が入っていなかったから・・・。

自分用の私物の寝袋を手に入れたのは下士官訓練コースの時だった。いい寝袋はどうしても値段が高いというイメージがつきまとっていたし、兵卒の給料ではなかなか手を出しにくいというのもあった。なんといってもそんな買い物をした暁にはビールの量が減る・・・。

 

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