B117 フランス語のできない無線機番

1989年19月11日(水)

午前中は橋の爆破のための訓練をした。今夜その任務を遂行するためだった。橋のどこにどれぐらい爆薬を仕掛けたら効果的かなどを学んだ。その後はいくつかの「赤」のコースの復習をやった。「青」のコース、「赤」のコース共に個人で超えなければならない障害コースだったけれども、明日からは今度は分隊で纏まって超えなければならない「黄色」の障害のコースが始まるという事だった・・・。

 

午後は、実際にボートを使って上陸地点まで行って爆破する橋をいくつかの山を越えて偵察ではないけれども下見した。今夜同じ道を通っていくと考えると急な坂道が多くて不安になった。それに今夜はロペス伍長のせいで10キロもあるTR -PP13という無線機を持たされる事になってしまった。彼は管理小隊から来ているのだが、僕は好きではなかった。口だけで自分では何もやろうとしない奴だからだ。向こうも僕が嫌っているのが分かったらしくこの無線機番にされたのだった。でも分隊の人間は第1小隊なので、僕がフランス語がイマイチというのは知っていて荷が重すぎるという事で他のやつに代わってもらった。

昼間の訓練通り橋を爆破する任務を終えて今夜の宿営地に向かった。昼間と同じ場所にも関わらず中尉が2度も道を間違えてしまって宿営地に着いたのは午前1時を回っていた・・・。今夜のガードは僕らの分隊だったけれど、運良く一番立ちだったので、シャツを着替えたりしていたらすぐに交替の時間が来た。半長靴を脱いで急いで横になったけれどひどく寒い。うとうとしてばかりで2時間ぐらいしか眠る事が出来なかった・・・。

 

1989年10月12日(木)

5時起床。荷物をまとめているとトラックが迎えに来たので急いで乗り込んだ。

午前中は「黄色」の障害コースだった。分隊で協力して越えなければならないコースだ。管理小隊から来ているロペス伍長は的外れな指示を出したり余計な口を挟むのでシュラバース軍曹にしょっちゅう叱られていた。そのくせ僕らに対しては偉そうな口をきいて威張っているので分隊の連中はムカついていた。

最初という事で10時頃に終わった。昼食後は集合までの間少し眠った。何しろ午後も同じような訓練があるからだ。

午後は、15メートルほどの高さの要塞の壁面を使ったロープ降下訓練と、この間同様、谷間に張ったロープで負傷者を反対側に渡す訓練をやった。ロープ降下訓練は機会があると行われたのでもう慣れっこになってしまってビビるという事は無くなってしまっていた。8の字リングやカラビナを使わずロープだけの降下も難なくできるようになっていた。その時は襟を立てないと首筋をロープが擦るのでロープ降下訓練が始まる時はすぐに襟を立てるという事を覚えた。最初の訓練の時に首筋に擦り傷を作ったのは僕だけではなかった。

けが人をポンチョで作った担架に乗せていかに負担なくロープで反対側に渡す訓練が難しかった。けが人はそれだけでストレスがかかっている上に谷間をロープだけで移動するのは更にキツイに違い無いなどと考えながらロープを引っ張り静かに下ろしたりした。おまけに担架にガッチリと固定されているので身動きが出来ない。けが人役の奴は反対側に着いて下されるまで心配だったそうだ。

 

夕食を急いで食べて20時ごろまで武器手入れをした。今回はやり直しはさせられずにすんなり武器庫に返納できて時間があったので久しぶりに何人かで酒保に行ってビールを飲んだ。

 

読んでくれた人、ありがとう

 

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