B087 1989年8月2日(水)ブリュッセルの「なんとか小僧」は火を消せるのか?

「CTE04」(基本技術証明04)が始まった。04とは「兵科ナンバー」で、工兵を表す。主な生徒は第2小隊だった。なのでこの訓練コースの責任者は小隊長のフラダン中尉であった。まだ若く端正な顔立ちで厳しい人であったが、僕の中でのいかにも「フランス人の士官」というイメージの人であった。その後彼の小隊に付いて中央アフリカにも行ったし、下士官になってからは色々と目をかけてもらった。今でもつながりがあり年末や年始に限らず、何かの折にはメールする間柄である。優秀な士官で第2外人工兵連隊の連隊長までなった人で、彼を知っている連中の間では、「いつ星がつくのだろうか?」(将軍になる事)としょっちゅう話していた。けれども現在のフランス軍の体制に嫌気がさして大佐で退役して、現在はベルギーのブリュッセルにあるヨーロッパ共同体の本部のアフリカ関係の部署にいるという事だ。なので、僕が外人部隊除隊後にアメリカの会社の契約でソマリアにいる時にはEUの視察で首都のモガディシオまで来たことがあった。僕はその時は別の作戦地域にいて会えなかったので残念だった。

 

最初の授業はドジェイ軍曹がフランス軍が使っている爆薬についての授業を行った。しかしフランス人のドジェイ軍曹は非常に早口で、今思えば、教範をただ棒読みしているだけだったのでひどい授業だった。ノートを取るのも追い付かないぐらいの速さだった。隣に座った第3小隊のサミュエルが休憩の時に親切に説明してくれた。午後は別の軍曹でゆっくり話すのでだいたい分かった。

16時を過ぎた辺りに突然非常呼集がかかった。ニームの近くで火事が起きたという事だった。急いで出発の準備をしたけれどそのまま待機になった。夕食後何人かで酒保に行ってビールを飲んでいたのだが、再び非常呼集がかかった。それから2時間ぐらい中隊長以下士官の顔は見えなかった。今になって思うと彼ら士官も士官食堂へ行ってビールを飲み食事をとっていたわけだ。僕らはというと、出発の準備は出来ている。他にやる事がないので再び酒保に行ってビールを飲みながら次の指示を待っていた。

僕らの装備はというと、背中に背負う事が出来る20リッターの水のタンクと、そこから伸びて手で前後に動かすと水が出るポンプとホースの付いたものが数個、平たい金属が熊手状になった「Batte à feu」バット・ア・フーと呼ばれる「火叩き」だった。スコップとツルハシは通常装備なのでこれも積み込んだ。しかし、このタンク、別名「Pissette」ピセット(小便の様なチョロチョロとしか液体が出ない物)と呼ばれ、どんなに早くポンプを動かそうが、ベルギーのブリュッセルの「なんとか小僧」の様にチョロッ、チョロッとしか水が出ないのだ。そんなので火事の時に役立つのか???

index Batt à Feu
「Batte à feu」バット・ア・フー

酒保も21時で閉まるので、車両のところに集まってタバコを吸っているとやっと集合がかかり21時過ぎに出発した。

僕はルスィック軍曹の装甲車に乗れと言う事で乗った。

 

高速道路のニームの東出口近くから見える丘という丘が燃えているのが見えた。燃えているというより燃えてしまって手前側は焦げ跡しか見えない。丘の稜線にはまだ大きな火が見える。こんな大きな火事は映画か何かでしか見た事が無い。陽がほとんど沈んでしまっているのだけれど空を真っ赤に照らしているのだ。何かに怒っている様に感じた。今夜は夜を徹しての消火活動をするのだろうと覚悟した。そう思うと眠気が飛んでしまった。ニーム東で高速道路を降りてしばらく走って道路脇に停車した。今夜は待機という事で、その辺で寝ろとハンセン伍長に言われた。なので寝袋を出して、日本から送ってもらったインスタントの「味噌汁」を作って飲んで寝た・・・。

 

 

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