僕の22歳の誕生日は、連隊のバスで2時間半ぐらいの所にある地中海に面した街の外れにある第21、22、23外人志願兵行動連隊(第2時世界大戦時の1939年に創られたが1940年に廃止された)の記念式典だった。外人部隊の最高司令官の将軍や外人部隊音楽隊もやって来た。
追悼のラッパが始まる前に号令がかかり捧げ銃をした。追悼の意もあったが僕は自分の誕生日のために捧げ銃をした。
1989年5月22日(月)
この日は中隊勤務のうちの一つであるPiquet d’Intervention 通称P.I(連隊初動班)の勤務だった。コンプ軍曹以下伍長と6人の兵士だ。午前中、連隊の重要拠点である武器庫などに攻撃があった時にはどこに配置に付くかをコンプ軍曹の指揮で覚えた。それ以外はとにかく待機所から出ることは許されず、ただテレビを見るかベッドに横になっていた。
待機所の扉はコードを入れなくては開かない様になっていた。時間制限もある。10秒ぐらいだったか???それ以内に出入りをして扉を閉めないといけない。さも無ければ連隊中にサイレンが鳴り響くことになる。以前「このサイレンはなんだ???」という事があったけれど、ヘマをした奴のおかげで扉を時間内に閉める事が出来なかったんだなぁとこの時知った。
ベッドには足の部分にビニールのカバーが付いていて半長靴でそのまま横になってもいい様になっていた。結構楽な勤務だなと思っていたのは夜までで、消灯後には何時間おきかのパトロールがあった。戦闘服に半長靴で寝るのは慣れないとそれなりに窮屈で疲れる。おまけに半長靴だってたったの3ヶ月ぐらいしか履いてないのでまだ革が硬い。
1989年5月23日(火)
24時間勤務明けなのに今朝は装備を付けて背嚢を背負い、8Kmの駆け足だ。これはどこの連隊でもやる訓練で、時間制限もある。軍隊の作戦では、所定の位置に所定の時間で部隊配置出来ないと作戦が上手くいかない。例えば攻撃するのに機関銃の援護が必要という事にしよう。攻撃時間になっても援護の機関銃班が所定の場所に時間通りに着いていなければ、攻撃班は機関銃の援護なしで攻撃をしなければならず、下手をすると甚大な被害が出る。その小さな作戦のズレがあるとその後の大きな作戦にもズレが生じる。そうなってくると大作戦を敢行しても大失敗に終わる。その他、この駆け足は8000TAP(Troupe Aéroportée=空挺8キロ駆け足)ともいう事を覚えた。落下傘部隊は、降下した後はかなりの範囲に散らばるのだが、急いで集結しないと部隊として成り立たない。全装備を持って急いで部隊長の元へ集結しなければならない。そのために全装備での駆け足が必要になる。外人部隊全てが落下傘兵では無いが、作戦のためには必要な訓練であった。除隊まで何度走ったかわからない。下士官訓練コースではそれが15Kmであった。7キロ半走ってまた7キロ半戻ってくる。軍曹になるには並みの兵士の体力じゃ持たないのだ。しかしその15キロ走は僕がやった下士官訓練コースが最後で、その後から8キロに戻された。何故なのかは知らない・・・。
これは一般の企業にも当てはまる事だ。所定の位置に所定の物を所定の人間が所定の時間内に顧客のために準備する。そのどれかに不具合が生じると仕事全体に支障を来たす。
連隊前の道路を渡って線路下を抜けて農家がある。そこがスタート地点であった。そこから遠くに見える高速道路まで行き、道路沿いに少し走ると折り返し地点に着く。そこには先に出発したルアール伍長がいて全員を確認する。幸いだったのは上りも下りもない平坦な所を走る事だった。一応1時間以内で走るというのだがこの時のタイムが50何分かだった様な気がする・・・。人生でそんな長い距離を走った事は記憶にないので走り出すまでキツさはわからなかった・・・。
1989年5月24日(水)
軍曹指揮下の戦闘訓練と日記にはあるがそれ以上のことは書いてなく詳細不明・・・。
読んでくれた人、ありがとう