B032 野外訓練第1週目 その2 隊歌、外人部隊勅諭

野営の翌朝、軍曹たちが僕らのテントの支柱を倒して皆を起こした。皆急いで全てを背嚢に詰め、準備が出来た所で軍曹の後に続いて駆け足で宿舎に戻った。。上りの坂道でフル装備の駆け足だったのでキツかった。宿舎に着くと朝食をとり、またいつも通りの訓練が始まった。

コンパスの使い方、歩測の仕方、カモフラージュの仕方、射撃の姿勢、照準の仕方など習った。戦闘訓練の初歩も始まった。一人前の兵士になるために必要な事を毎日教え込まれた。

毎日といえばフランス語の授業も毎日あった。中尉が先生で、一通り説明すると、外国人は相方のフランス人に繰り返し発音などを教わる。外人部隊といっても、フランス陸軍の一部であるので、命令は全てフランス語である。

なのでフランス語は必ず覚えなければいけない。戦闘中に命令が分からなければ、即ちそれは「死」に直結する。

フランス語は難しかった。英語さえ碌に出来ないのにフランス語などそう簡単に出来る物では無い。でも、毎日朝から晩まで伍長から命令を受けているし、周りのフランス人のお喋りなどを聞いていると耳に馴染んできそうであった。最初に覚えたフランス語、「箒」と「雑巾」同様、毎日の雑用に関する単語はある程度覚えた。

夕食後は毎日外人部隊隊歌を覚えさせられた。隊歌の載っている本など支給されていないので、スライドに映し出された歌詞を全て手書きで写さなければならなかった。おまけに座る事が許されなかったので、一日中いろんな訓練でヘトヘトになっている僕らにはキツかった。さらに大変だったのは「歌詞」であった。フランス語の歌詞なので覚えるのは並大抵の事ではなかった。メロディーの方は覚えるのは簡単だった。以前バンドをやっていて良かったと思った一瞬であった。ルアール伍長が担当した。

それと同時に旧軍の「軍人勅諭」のような「外人部隊勅諭」があり、7つの文から構成されている。それも覚えさせられた。外人部隊兵はこうあるべきという事が書いてある。のちに伍長になって新兵に教えなければならなくなった時があった。その時初めて真面目に覚えて空で言えるようになった。現在は6番目の文が現代に合うように改定されたけれど、古いままなら今でも全部覚えているので空で言える。

「La mission est sacrée, tu l’exécutes jusqu’au bout, à tout prix」任務は神聖であり、お前は全力で、最後までそれを実行しなければならない、と言う事で、これは古い方の「6番目」なのだが、掃除の時にも雑用の時にも言われた。トイレ掃除も外人部隊では「神聖な任務」なのであった・・・。のちに階級が上がった時には部下に対してよく使った言葉である。新しい6番目に変更になった時にはすでに下士官だったが、僕ら古株で古いフレーズを知っている者達の間では評判が良くなく、古い「6番目」の方が使い勝手が良かったので皆残念がった。

日曜日はベッドを外に出して寝袋を干し、洗濯などした。洗濯といっても、洗濯機がある訳では無い。洗濯用ブラシと、フランス人では知らない人がいない洗濯用の「マルセイユ石鹸」で冷たい水に震えながらの洗濯であった。午後は薪拾いであった。中尉たちの居住区にはサロンがありそこには暖炉があった。薪拾いはそのためであった。僕達には暖房というものは無かった。どんなに寒い日でも防寒用のパーカは着させてもらえなかった。僕らは毎日一日中空腹で眠く、そして寒さに震えていた・・・。

この週の中頃、見知らぬ夫婦が中尉に付き添われて訓練を見学していた。その夫婦は僕の分隊にいるスイス人の「ヴィゲー」の両親だった。彼はまだ17歳なので外人部隊に入隊するには両親の承諾書が必要であった。彼の両親はわざわざスイスから息子がどんな生活をしているか観に来たのであった。ヴィゲーは17歳だったが僕の相方の子どもっぽくて忙し無いソバージュに比べて随分落ち着いているので、言われなければ17歳には見えなかった。その時分隊は国旗掲揚台の前の広場でFA-MASの取り扱いをコンプ軍曹から教わっている最中だった。ヴィゲーは中尉に呼ばれて両親と少し会話をして戻って来た。もう少しゆっくり話させてもいいのになと思った記憶がある。

                            読んでくれた人、ありがとう。