B030 1989年3月4日(土)  小隊にて その5 野外訓練

小隊が全員揃ったので連隊長の大佐の所へ訓練を開始する申告ために連隊長などがいる司令部の建物へ向かった。

司令部一階の「Salle d’honneur」(連隊名誉の部屋とでも言おうか???)昔の古い連隊旗だとか写真などが飾ってある。特別な事以外では入る事が出来ない所であるらしい。国籍ごとに並んだ。僕は英語圏の連中と一緒の所に並んだ。連隊長がやって来た。通訳のマクナマラ伍長は早口の英語だったので連隊長が何を言っているのか全くわからなかった・・・。

              1989年3月5日(日)     野外訓練出発準備

              明日から3週間の野外訓練に行くので色々な装備品が渡された。背嚢、寝袋、ヘルメット、弾倉ポーチなどなど。それらとは別に、ペン、大小のノート、爪切りなど、皆区別なく同じものを同じ数だけ支給された。

明日出発だ。きっと厳しい訓練だろう。でも、本で読んである程度覚悟はしていたので、なんとかなるさ・・・。

              1989年3月6日(月)〜 野外訓練第1週目

              いつも通り起きて荷物を積み、カステルノダリーから30キロほど離れた「Raissac」(レイサック、フランス南西部ミルポアの北)と言う場所まで行く。出発前に武器庫へ行き各自小銃が手渡された。フランス軍制式小銃「FA-MAS」であった。この小銃はちょっと変わっていて「ブルパップ」と言う構造で、普通の小銃だと、グリップの前に弾倉を入れる所があるけれど、このFA-MASはグリップの後ろに弾倉を入れる所がある。その仕組みのおかげで全長を短くする事が出来るので取り回しが容易になる。カーボンプラスチックを多用して軽量化を図っている。当時の自衛隊の「64式小銃」や米軍のM16A2に比べて軽くバランスが良かった。銃の番号は覚えやすいようにという配慮なのか「50025」であった。

「Raissac」に着いた。農場のような所であった。中尉や軍曹が寝泊まりする所はちゃんとしていたが、僕らは同じ建物の端の「納屋」であった。所狭しと折り畳みベッドを置いたら歩く隙間も無い程であった。入り口の扉は無い。その上の方も壁が一部無くて、空が丸見えであった。まぁ壁と屋根が有るだけでも良い事にしよう。しかし僕等は散々使い古された寝袋と毛布一枚だけであったので、非常に寒かった。夜の点呼では全員パンツ一枚でそのベッドの上に立ち、日番軍曹が入って来るとベッドの上に気を付けをして自分らで1から順番に大声で番号をかける。勿論まだフランス語に馴染んでいないのに加えて、途中で間違えるのでクソ寒い中やり直しを食らう。一応上手くいって、良しとなると軍曹が「bonne nuit !」(おやすみ!)と言うのですかさず一斉に「Bonne nuit Sergent !」(おやすみなさい、軍曹!)と言い、先を争うようにして皆寝袋に入る。そして伍長達の点検が始まる。パンツ一枚での寝袋は寒いので、僕らは寝袋に入るとシャツなどを着る。それを伍長が見つけるとまた全員パンツ一枚でベッドの上に立たされる。そして電気を消すとまた暗闇の中、寝袋の中で皆ゴソゴソと動き出す・・・。

翌日は6時起床。ここでは6時起床、6時半に朝食、掃除などをして7時30分から訓練が始まる。起きるとすぐ点呼があり、急いで洗面、髭剃りだ。納屋の裏にはトタンの「飼い葉桶」のような、一応何個かの蛇口がついている所が僕らの洗面所であった。2月の満天の星空の下、手が千切れそうな程の冷たい水しか出なかった。ここ「Raissac」は、永遠に春など来ないのではないかと言う程寒い所であった。洗面髭剃りが終わると一欠片のパンとたっぷりの熱いコーヒーの朝食だ。それが終わると集合して「国旗掲揚」をして訓練が始まる。まだ空は薄暗い・・・。

FA-MASの取り扱い、分解組み立て、フランス語の授業、部隊の隊歌など毎日休む暇なく訓練が行われた。そしてすぐ10Kmの行軍があった。背嚢には寝袋、2人でひと張りになる奴の半分のテント着替えの戦闘服などで一杯になった。

ロサ・ファテラ上級軍曹が先頭で、道のない藪の中や丘をどんどん進んで行く。小隊を2つの分隊に分け、僕は第2分隊であった。分隊長は背の高くて鼻筋が通ったドイツ人のコンプ軍曹であった。その下にはここに来る前に小隊に配属になったイギリス人のバックリー伍長がいた。僕のいる分隊は英語を話す連中が結構多かった。

 

        読んでくれた人、ありがとう。

コメントを残す