初めという事で簡単な自己紹介とフランスに行く前、自衛隊入隊から除隊に至るまでの話から始めようと思う。
僕は昭和42年5月に岩手県盛岡市に生まれ、高校卒業まで盛岡にいた。高校は新設校の1期生として入学した。最初はバスケット部にいたが、中学の時先輩に憧れて始めたEギターを本格的にやるようになってそれとともにバスケットからは離れていった。
バンドに明け暮れギターをやっていたので、卒業後は東京にある「ギタークラフト」の専門学校に進むのだが、そっちの方では就職が難しいというのを悟った。高校の時から「背広着たサラリーマン」には絶対なるまいと思っていたが卒業後も仕事は決まらず、新宿歌舞伎町、「西武新宿線西武新宿駅」脇にあるインベーダーで有名なタイトーのゲームセンターでバイト生活をしていた。
西武新宿駅の駅ビルの7階だか8階に結構でかい本屋さんがあって暇な時はよく出入りしていた。音楽の雑誌やミュージシャンの伝記とかをよく見ていた。それと同時に子供の頃はタミヤのMMシリーズ(MM=ミリタリー・ミニチュア、戦車や兵隊のプラモデル)やモデルガンが好きで、なけなしの小遣いで「月刊Gun」や「COMBATマガジン」を読んでいたので、ついでという感じでたまに目を通していた。戦争モノの実話とかの本などもたまにではあるが立ち読みしていた。落合信彦の「傭兵部隊」を買ったのもここの本屋であった。また、イギリス人の元外人部隊兵サイモン・マレーの書いた「外人部隊」、柘植久慶の「フランス外人部隊」も買って読んだ。そこで国籍を問わず誰でも入隊できるという事を学んだ。
1987年、夏の終わり頃だったろうか?そこの本屋で「COMBATマガジン」新刊が出た。そこで「フランス外人部隊」の特集が載っていた。就職しないでバイト生活で何かに焦っていた僕は「何か決定的な行動を起こさないと僕の人生は変わらないんじゃないか???」と思っていた矢先、それを見た時「もうこれしかない!」と日に日に思うようになる。しかしフランスに行く金もなければ経験もない。その2つが手に入るところが日本にあるという考えに行き着くまでにそう時間はかからなかった。「陸上自衛隊」である。
ただ、周りを見てもそれらしい関係者はいないし、さて、どうしようかと数日考えたところで、歌舞伎町のバイト先から山手線ガード下をくぐって西新宿の警察署に行った。「自衛隊に入隊したいのですけれどもどこへ行けばいいですか?」と尋ねた。二十歳ソコソコの若い奴が「自衛隊に入りたいだぁ〜?なんだ、こいつは?」という顔をされたが、新大久保にある自衛官募集事務所を教えてくれた。
数日後、バイトの合間に新大久保の募集事務所のドアを叩いた。所長さんが直接話を聞いてくれた。所長さんは、女子ウエイトリフティングの三宅選手のおじさんか誰かだった記憶がある。ガタイがよくいろいろな表彰状が壁いっぱいに貼ってあった。ただこの時、「外人部隊」の名前を出したら入隊できないのではないか?と思っていた僕は入隊の動機を適当にでっち上げたように記憶している。いくつかの質問の後に簡単な筆記テストをやった。「及川くんは本当に大学を出ていないのかね???」と何度も聞かれた。のちに自分の知能指数がいいということがわかる。そのあと別の人を紹介されていつが時間取れるかといろいろ質問されて、近いうちに自衛隊の駐屯地を見学に行こうという事になった。
当日の見学先は、のちに配属になる「市ヶ谷駐屯地」であった。現在の「防衛省」のある場所である。当時はまだ第32普通科連隊(歩兵)がいた。昼は隊員食堂でとった。その間何を話ししていたのかは殆んど記憶に無い。とにかく一歩を踏み出したわけだから早く入隊したい!の一言だった。帰りにもう一度募集事務所に戻りいろいろと入隊の手続きの書類とか自衛隊のパンフレットをもらって帰路に着いた。
うまく10月半ばぐらいに入隊まで漕ぎ着けて前期の訓練は武山駐屯地(横須賀)であった。それが終わると後期教育に入るのだがそれぞれの配属先で行われるので、姉が東京で仕事していて近いという変な理由をつけて首尾よく「市ヶ谷駐屯地」に配属になった。第32普通科連隊である。こうして本格的な軍隊生活が始まったのだ。1987年12月7日の事であった。
読んでくれた人ありがとう。