B003 日本出国

自衛隊を除隊して盛岡の実家へ戻った。フランス行きに関してやはり家族と一悶着あった。日本人志願者なら避けては通れない問題では無いか?なぜフランスなのか?フランス語も喋れないのにどうするんだ?おまけになぜ軍隊だ!など散々言われた。でももう既にパスポートも取ったし航空券も手配した。行く気は変わらないと説明した。しばらくしたら諦めたのだろう。何も言われなくなった。

以前、渋谷の洋書を扱っている書店「アルバン」というところで、「外人部隊」の特集が載っている英語の本を1冊、写真集みたいなのを1冊買ったので、暇な時はそればかり見ていた。一応旅行ガイドも買った。確か「パリ便利帳」と言ったかな?パスポート申請、空港での手続き、パリに着いてから地下鉄の切符の買い方など情報満載だったので国内旅行も大してしていない僕にとっては正に海外旅行の指南書であったので何度も繰り返して読んだ。

自衛隊時代に仲の良かった同期が横浜から盛岡まで僕の様子を見に遊びに来てくれたのはいい思い出だ。奴とは自衛隊新隊員教育隊から市ヶ谷の第32普通科連隊第4中隊まで一緒で、中隊では班は別だったが非常に仲が良かったので来てくれたことが嬉しかった。盛岡には4、5日いたけれど、毎晩飲み歩いていろんな話をした。後期教育隊の時の外出では奴の実家のある横浜まで遊びに行った事もあった。昔奴がよく来ていたと言うビリヤード場に行った。交互に白い球を突き合うのだが、そこのビリヤード場の冷蔵庫にあった「クアーズ」(ビール)を20本ぐらい二人で全部飲んでしまって自分の番が来ていざ白い球を突こうとしても白い球が4つか5つに見えてしまって勝負にはならないくらいベロベロになった事もあった。そのあとどうやって連隊に戻ったのか、さらにどうやって夜の点呼をやり過ごしたかは全く覚えていない・・・。フランスに行ってから2、3通手紙のやり取りをしたがそれ以来音信不通になってしまった・・・。非常に残念である・・・。

そうこうしているうちに1989年を迎えた。1月初旬「天皇陛下崩御」の知らせが日本全国を駆け巡った。その日は暇だったので、お袋とテレビ番組も見ずにずっと懐かしい古い映画のビデオを夕方まで何本も見ていた。そして夕方になった。すでに盛岡に戻って就職していた姉が帰ってくるなり開口一番「天皇陛下が亡くなっちゃったね〜。」と言った。僕とお袋は「こいつ何言ってんだ???」状態だったが慌ててテレビをつけると何処のチャンネルも「天皇陛下崩御」一色であった。そして時代は平成になった・・・。

飛行機に遅れるといけないからという家族の勧めで、横浜の親戚の所に何日か世話になってそこから成田空港へ向かう事にした。

盛岡での最後の晩は、高校の時やっていたバンドの先輩達が送別会を開いてくれた。翌日朝早くの新幹線で一路東京へ、それから京浜東北線、京浜急行を乗り継いで親戚の所に向かう予定であったので、送別会は比較的早い時間に終わった。翌日早朝に新幹線ホームへ行くと、何とそこには!昨日送別会を開いてくれたバンドの先輩の医大生男4人、女1人が来ていたのだ!その5人に胴上げまでされて当時よく飲んでいた「アサヒ・スーパー・ドライ」を2本ほど貰って新幹線に乗った。

横浜の親戚のところで2、3日ゆっくりして、横浜駅まで行って、そこから成田空港行きのリムジンバスに乗った。

1989年(平成元年)1月28日の事であった。

読んでくれた人、ありがとう。

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